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とある理系学生のつぶやき(3)

今回は「発言」について。

私の発言という意味ではなくて、「発言」というものそのものについて話してみたいと思います。

こんなことをブログで書く理由としては、最近に始まったことではないのですが、ある種の職業の人々の「失言」というものが平たく言ってしまえば流行っているからです。


思いつきですし、私自身博学な身から遠い位置に属しているのでその辺はあしからず。また、私はこの記事で一部の党や人物に対して批評するつもりはありません。あくまでも私のものの考え方であり、それが最終的に正解であるということではありません。また例で挙げている事柄について、私の考え方においては賛成とも反対ともいうことはありません。(何せ私はその発言の全てを聞いたわけでも、発言者と議論したわけでもありませんので)

それでは書いていきたいと思います。


最近は発言について、とくに失言の話題が多くメディアで取り上げられます。
確かに、誰の目から見ても失言というものも多く存在しています。
しかし、時にメディアが煽り立てるように書きたてている場合も多く存在します。

発言には表面的な見方による捉え方と真意というものが存在しています。
もちろん真意というのは発言した本人にしか分かりえませんし、本人以外に理解できるというのであればそれはその人から直接(嘘ではない)理由を聞いた場合くらいしかありません。
ですから、テレビの前に座っていて報道される失言について、それらの真意を理解することはできません。
しかし、メディアの言うとおりの「失言」であるかどうかはわからないのです。

例えば、今回仙石官房長官の「失言」として挙げられている「暴力装置である自衛隊」という言葉を取り上げてみます。最初に聞いたときに少し聞き覚えのある言葉だなぁと思いつつも思い出すことはできませんでした。
調べてみたところ、マックス・ヴェーバーの著書『職業としての政治』の中で使われた言葉のようです。(この本はさすがに読んだことがないと思います)
ただ、『合法的な暴力の独占(monopoly on legitimate violence)』で何となく思い出しました。一度調べたことがあったのです。

おそらく、暴力という言葉そのものが一般的にとらえられている「悪」のイメージが強いため、また「装置」という人の集団でもある自衛隊を機械のように扱うイメージを与えるため、今回「暴力装置」という言葉に批判が集中したのでしょう。ただ、もともとの意味としては批判的な意味と言うよりも「法律的に合法な政府の持つ物理的な抑止力」という意味合いでしか使われていない言葉ですので、そのもともとの点のみでいえば、あながち間違った発言ともいえないのではないかと思います。(もちろん、ニュースでは発言の前後が省略されていて、どのようなコンテキストの中で言ったのかは定かではありませんが)

もちろん常識的に考えて、とくに日本という国で(軍隊ではない)自衛隊を「暴力装置」と言ったのは失言でしょう。しかし、それ以上の失言と言うには少々ニュースの情報だけでは少ない気がしますし、意味としても「失言」というのは尚早な気がしてなりません。実際に国民は自衛隊による「物理的な抑止力」によって守られているのです。それを学術的な用語として仙石官房長官がおそらく知識として持っていた「暴力装置」という言葉で表したのは、「誰の目に見ても」失言だとまではいえないと私は思います。

さて、「発言」について、というより、ものの見方についてになりつつあったので少々話を戻します。
先ほどの例に挙げた「発言」というのが「失言」に当たるかどうかは別として、人の発する言葉「発言」というのは思っている以上に大きな影響を与えることは少なくありません。また、自分が思ってもいない解釈を受けるということもです。

「発言」を行うということを私たちは常日頃行っています。
ですから、ついつい自分の「発言」の持つ重みを忘れてしまうことも多くあります。
「発言」を「失言」に変えないためには、自分の「発言」がどのように影響するかを予測する必要があります。もちろんそんなことを100%の確率でできる人がいたら、その人はきっと神か、それに類する預言者かなにかでしょう。
ただし「失言」を減らすことは可能かもしれません。
それには先ほどまで言っていた、「ものの見方」が重要になってきます。
「ものの見方」というのは「ある物事をどのようにとらえるか」ということです。この「ものの見方」を多く持っていれば、もしくは多くの見方をできるようにすることを心がけていれば、「失言」というのはおのずと減ると思います。
大部分の失言は発言者の意図した内容と思ってもいない意図として汲まれた結果におこるものです。
これは自分の発言について「自分による一つの」見方しかもっていないことによります。つまり、「他人がその発言を聞いた時の」見方ということを考えられれば、「失言」をすることは減るはずです。

「発言」は自らの考えを主張する知的で重要なコミュニケーションツールです。その知的で重要なコミュニケーションツールをマイナスに使わないためには、様々な方向からものを見ることを心がけることがいいのではないかと思います。もちろん、その見方の中から自分の考えを選ぶということは重要ですし、「失言」になると分かっていても伝えたいことがあるのなら、それは「様々なものの見方」から選んだ「自らの意思」で決めることだと思います。



さて、私の日ごろ考えていることですが、「様々なものの見方」を持つことと「自らの考え」を持つことは対極的に見えて実はそうでもありません。「自らの考え」を「様々なものの見方」の中から選ぶことができるというのは、自らのポリシーや感情により適した「考え」を生むことができると思います。

このような中で「発言」というのは生まれ、そして「様々なものの見方」の中から選ばれた「発言」は「自らの意図」とは異なる意味としてとらえられるような「失言」は生まないと思います。


我ながら稚拙な文章です。
拙著という言葉すらもったいない言葉のように感じてしまいます。
もっと文章力を上げてみたいなと感じます。

それではこの辺で。

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